聖書による信仰とは、へブル人への手紙 11:1 には、このように書いてあります。
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信仰とはいったい何でしょう。それは、望んでいることが必ずかなえられるという確信です。また、何が起こるかわからない先にも、その望んでいることが必ず待っていると信じて疑わないことです。(JCB)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 (新共同訳)
信仰とは、願い事が必ずかなえられるという、不動の確信のことだ。
また、どうやって起こるかわからない行く手にも、望みどおりのことが必ず待ち受けていると信じて、疑わないことである。(AB)
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(口語訳)
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要するに、今はない、目に見えない、持ってないが、それがあると確信することです。
一番簡単に例えると神さまです。
神さまが存在しているかしてないかは、誰にも証明出来ないです。
しかし、私達クリスチャンはいると信じています。
信じてない人から見れば、変な話です。どうして信じるの?と思うかも知れません。
これこそが信仰です。確信です。
神さまが存在するという確信を持つことが信仰です。
普段でも信仰を使う場面があると思います。
信仰とは存在するという確信です。
例えば、あなたがピザを頼み終わった時、家でそれが来るのを準備して待ちますよね?
現時点で、まだピザは届いていませんが、料理とか作りませんよね?
ピザが目の前にないのに、どうして作らないのでしょうか?
それは、ピザが来ると確信を持っているからだと思います。
その、絶対来る!こそが信仰です。
信仰は希望ではありません。
希望は確信ではないからです。
希望は起きるかも知れない、本当に起きるとは限らない事です。
しかし、信仰は絶対起きる、確信で、起きないのは考えられない事です。
その違いがあります。
信仰は難しく考えずに単純に来る確信です。
その確信は自分の心の底からの確信です。
よく考えてみれば、信仰を使う場面が多いと思います。
一度、考えて見ると新たな発見があるかも知れません。
僕の友だちが車を買いましたが、買った時にみんなに言って喜んでました。
(実際に届いた時はとても喜んでました)
まだ、車に乗ってもいないのに、よく考えれば変ですよね?
それは信仰ですよね。
もしかしたら、車が急に壊れるかも知れない、急に盗まれるかも知れない。
自分のところまで届くまでの過程で起きることなんて山ほどあり、それが起きないなんて誰にも保証できません。なのに、車のためにいろんな物を買ってました。
届けばいいなという希望ではなく、確信があったからです。
まだ見ていない事実を確認すること、その確信こそ信仰です。
信仰をこれからもっと使って行きましょう!
福音は信仰で始まり、信仰で終わります。そして正しい者は信仰によって生きます。