金持ちの青年

聖書の中で私にとって心強い聖書箇所があります。マタイ19に金持ちの青年の話が記載されています。その青年はイエスと話して去った後、弟子たちはイエスのところに近づいて興味深い質問をしました。

マタ 19:25 このことばに、弟子たちはすっかり面食らってしまいました。「それなら、この世の中で、救われる人などいるでしょうか。」

それに対して、イエスキリストの返事は心に安らぎをもたらします。

マタ 19:26 イエスは、弟子たちをじっと見つめて言われました。「人間にはできません。だが、神には何でもできます。」

それはとても喜ばしい良いニュースです。私たちは神様を信頼すれば、神様は何でもできるお方なので、神様に救われることを信じることができます。しかし、弟子たちは深く考えていた。一体何があって心配させたのだろうか。そこに注目を弾き寄せます。主イエスとあの青年はどんなことを話したのでしょうか。二人の間に何があったのでしょうか。

マタイ19章16節から30節までその話は記載されています。ある金持ちの青年はイエスに近づいて、永遠の命を得るには、どんな良い行いをすれば良いのかと訪ねていました。質問に対して、イエスは、ユダヤ教に属している人にとって、とても簡単な質問しました。それは、「あなたが十戒を守るのか」ということです。ユダヤ教というと、モーセの立法である十戒は最も有名だと言っても過言ではありません。ですからイエスキリストはいくつかの一般的な法則を引用して、青年は全て肯定的で、自信満々で「はい」と答えました。ところが、十戒の中で、イエスは一つの法則を隠し青年に聞きませんでした。どういう法則だったのでしょうか。

その前に、話を続くと、イエスは青年に全ての財産を売って、その代金を貧しい人に分けて与えなさい。そしてイエス様についてきなさいと命じました。そうすれば、青年は永遠の命を得ることができると、イエス様は明らかにしました。残念ながら、青年はそれを聞くと、大変金持ちだったのでとても落ち込んで主イエスのところを去りました。

それで、主イエスは弟子たちに向かって、金持ちが天国に入るのは、非常に難しいと教え始めました。ですから、それに対して弟子たちが驚いたのです。「それなら、この世の中で、救われる人などいるでしょうか。」と疑問しました。一方で、現代である私たちは、なぜ弟子たちがそんなに驚くのかと不思議だと思うかもしれません。それは、私たちは宗教的に金が悪いなどと教わったため、イエスの教えが当然だと決めつけてしまうからです。

この背景をよく理解するためには、ユダヤ教の持つ考え方の弟子たちがなぜ驚いたのか知る必要があります。まず、理解するべきなところは、イエスキリストが別に金持ちに反対して天国に入るための制限があると教えていないということです。他の聖書箇所を見ると、金持ちでもキリスト教に属し、神様は豊富に対して逆らっていないとわかります。

1テモ 6:17 テモテよ。富んでいる人には、高慢にならないように、そして、すぐになくなるお金に望みをかけないように教えなさい。また、必要なものをいっさい備えて、私たちの人生を楽しませてくださる生ける神を誇りとし、この方だけを信頼するように忠告しなさい。

そして、主イエスについて行くためには、全ての財産を捨てる必要があるという教えは全てのクリスチャンに当てはまるものではありません。なぜかというと、主イエスがそのように命じたのはその青年だけに向けた言葉です。それは、十戒の話の中で隠れていた法則と関係があります。

それから、弟子たちが驚いた理由を理解するためには、こういう風に考えてみましょう。あなたの教会に、ある青年がくるとします。その青年は、働き者で、良い家庭に育てられました。自分の宗教に対して優秀でした。彼を見て、誰でも、その青年は力を尽くして、心から教会の教えを従おうとして、勉強する努力も見られました。それに、とても祝福された人生を送っていました。それは、必ず彼が神様のみこころに従っていた証拠だったので、大変富む人になったと思われていました。ですから、教会の奥さんたちも「もし彼は、私の娘と結婚していればなんて幸せなんだろうか」と夢中になり出来るだけ自分の娘をその青年に紹介しようとしました。

もしかしたら弟子たちもこのような考え方を持っていた可能性があります。特にユダヤ教徒にとって、富むということは神様のみこころにかなっている証拠でした。その青年は、十戒を守ろうという姿勢も見えたし、永遠の命に興味もあったし、とても繁栄な人生を送っていたのに、なぜ天国に入らないのかとびっくりしたでしょう。それだったら、誰が、救われますか。無理でしょう。

人間は努力しても、心の底では悪い気持ちを養うこともあります。ある人は誰かに対して恨みを持つかもしれません。ある人は、誰にも言えない、不品行な思いを持っています。主イエスに出会った青年は、貪欲を隠そうとしました。十戒の中で最後の法則は、貪るなという法則です。ですから聖書はこのように記載されています。

マコ 10:21 イエスは心から彼に同情して言われました。「あなたには、たった一つだけ欠けたところがあるのです。さあ、家に帰って財産を全部売り払い、そのお金を貧しい人たちに分けてあげなさい。そうすれば、天に宝をたくわえることになるのです。それから、わたしについて来なさい。」

あの青年には誰よりも何よりも大切な物がありました。それは神様ではありませんでした。彼は教会に通っても、聖書を覚えようとしても、全ては見せかけでした。では、彼が救われないなら、誰が救われますか。

マコ 10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

神様は私たちの心の底まで知っています。私たちは自分の努力によって救われませんが、イエスキリストを信じることによって救われます。ですから、金持ちであっても貧乏であっても、イエスキリストを信じる信仰によって、神様の恵みで天国に入ることができます。それは神様の恵みです。私たちは天国に入るには、ふさわしい者ではなかったのに、神様の子である主イエスを受け入れることだけ、ふさわしい者とされました。なんて素晴らしい恵みでしょう。

エフェ 2:8-9 あなたがたは、恵みにより、キリストを信じることによって救われたのです。しかも、そのキリストを信じることすらも、あなたがたから自発的に出たことではありません。それもまた、神からの賜物(贈り物)です。救いは、私たちの良い行いに対する報酬ではありません。ですから、だれ一人、それを誇ることはできません。