種蒔きの法則

あなたは種を植えた経験がありますか。おそらく学校で教わったのではないかと思います。子供のころ、私は豆の種を巻いたことがあります。一週間未満で伸びた種の芽を見て私はとても興奮した思い出があります。もちろん当時も都市化しつつでしたが、現在の子供は、ますます農業の知識から離れていると思います。ですが、私たちは種蒔きの法則から離れることは不可能です。多くの人は意識していないだけで、人間は日々種蒔きの法則の下で生きています。ただ単に気づいていないのは、種の種類が多くあるということです。

創世記 8:22

地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。

種蒔きの法則を定めたのは神様自身です。つまり、地の続く限り、種蒔きと刈り入れはやむことはないと定められています。なので、何かを刈り取りたいなら、まず種を蒔く必要があります。当然、何も蒔いていないなら、何も刈り取れません。

そして、もう一つ興味深いことがあります。農業者は、りんごの種を蒔いて、葡萄を刈り取ると期待をしません。りんごの種を蒔いたなら、当たり前にりんごを刈り取ることを期待するでしょう。また、種の種類によりますが、一個の種を蒔いて、何倍かの実を刈り取ることは普通です。とうもろこしの種の例を挙げると、一個種が十個以上のとうもろこしを刈り取れます。それに、一個のとうもろこしに何十個の種があります。それを考えると不思議と思わないでしょうか。

ここまで、農業を考えて、いくつかの例を挙げましたが、種は物質的の物だけではありません。霊的な種もあります。霊の上で、種を蒔いて刈り取ることもあります。なので、聖書でよく種蒔きの教えが示されています。イエスキリストもよく種蒔きの法則をもって教えをしました。

今回はあまりに細かく種について語るつもりはないので、簡単に言うと、言葉や行動やお金などが種として見なしても問題ありません。例えば、よく教会で引用されるIIコリント9:6をもってパウロはお金を種蒔きの法則に当てはまった献金の教えをしました。

2コリント 9:6

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

それを読んで、なぜ多くのクリスチャンんは経済的に苦しんでいるか分かると思います。種蒔きの法則に当てはまるお金を蒔いていないからです。種を蒔く代わりに、種を食べてしまっているので、結局、経済的に何も刈り取っていませんし、いつも支援を必要とされています。実際に、聖書は経済に当てはまる種蒔きの法則の教えが多いです。ただ、明白に「種蒔きの法則です!」と記載されていませんが、種蒔きの法則です。例えば、箴言にもよく見られます。

箴言 11:24-25 新改訳聖書

ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。

箴言 11:24 リビングバイブル

惜しげなく人に施しても、ますます金持ちになる人もあれば、財布のひもを固く締めても、一文無しになる人もいます。物惜しみしない人が裕福になります。人を潤すことで、自分も潤うのです。

(ちなみに、上に二つの聖書バージョンを出しました。私はよく利用する新改訳聖書とリビングバイブルです。両方にも同じことが書いてありますが、リビングバイブルの方が理解しやすいので、リビングバイブル版を挙げました。一方で、新改訳聖書版の方が原本に近いので、聖書の勉強のためによく利用します。しかし、理解がしづらい場合、リビングバイブルのように理解しやすいバージョンを読むのもありだと思います。とにかく、クリスチャンになったばかりの方は最初、リビングバイブルを読んだ方が良いのではないかと思います。)

箴言11章24,25節を読むと、そこは第2コリント9章6節の種蒔きの法則と同じ教えだと気づくと思います。

しかしながら、種蒔きの法則はお金ばかりと関連しているわけではありません。もっと深い意味があります。イエスキリスト自身はみことばが種のようなものとして教えました。

マルコ 4:14

種蒔く人は、みことばを蒔くのです。

要するに、私たちはみことばを伝える時に、私たちは人たちの心にみことばの種を蒔いているということです。もちろん、実を結ぶかどうか、地の良さにかかっていますが、みことばの種を受け取る人はみな絶対に祝福されます。

実際に私たちの人生そのものは種です。イエスキリストの人生を考えてください。イエスキリストは自分のいのちを犠牲とし、ささげた結果として、私たちみな、イエスキリストのように神様の子供となりました。

ヨハネ 12:24

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

なので、私たちもキリストのように自分の人生を神様のためにささげると、神様は私たちを用いられ、多くの人が救われます。それは種蒔きの法則の力です。もし、あなたが神様のために人生を完全にささげたなら、あなたは自分の欲望ために死にますが、多くの人が救われる価値があります。

ヨハネ 12:24-25

よく言っておきます。畑にまかれる一粒の麦のように、わたしも地に落ちて死ななければなりません。そうしなければ、いつまでたっても一人のまま、一粒の種のままです。しかし、死ねば多くの新しい実が生じ、新しいいのちが豊かに実を結ぶことになります。この地上のいのちを愛するなら、結局はそれを失うだけです。しかし、地上のいのちに執着しなければ、代わりに永遠の栄光を受けるのです。

最後にあなたの行動も種のようなものであることを示したいです。ガラテヤ6:7,8でパウロは私たちの肉の行動と霊的な行動の違いを表しています。当然それぞれの実が違うことも表しています。

ガラテヤ 6:7-8

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

初めてガラテヤ6:7を読んだ時に、パウロはかなり強い発言したため、少し驚きました。しかし、確かにそうです。桃の種を植えて、スイカを刈り取ることを期待するでしょうか。そう考えるだけで、常識を超えるので、笑うしかありません。とりあえず、あなたは何を刈り取りたいですか。それを植えているでしょうか。しかし、残念ながら多くのクリスチャンは蒔いていないことを刈り取ろうとしています。それを刈り取れなくて、他の兄弟姉妹の人生を妬んでいます。

  • 愛を刈り取りたいなら、先に愛を蒔いてください。
  • 経済的な裕福を刈り取りたいなら、お金の種を蒔いてください。
  • 自分の計画に助けられたいなら、他の人の夢を応援してください。
  • 出世したいなら、上司や同僚などを尊重し、仕事でベストを尽くしてください。

あなたは現在の自分の刈り取りで不満を感じているなら、自分の種蒔きをよく見てください。牧師として多くの人とお話していますが、多くの人がまだ気づいていないのは、彼らが自分をああいう嫌な状況に置いてしまっていました。自分の決断で、過去に良くない種を蒔いてしまい、現在、望まない刈り取りをしています。なので、種蒔きを変えない限り、彼らの状況に何の変化も起こさないかもしれないし、若しくはさらに辛い状況にさせるかもしれません。

なので、パウロが勧めたように、いつも諦めずに良い種蒔きをしましょう!周りの人に何をされようとも気にせず、良い刈り取りが絶対くると期待をしましょう!

ガラテヤ 6:9-10

善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。