神様の義

今回は神様の義について書いていきたいと思います。

コリント人への第二の手紙 5:21

神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

多くのクリスチャンは神様の義のことを知らずにいます。では義とは何でしょうか?ギリシャ語で「義」はディカイオスネで、「あるべき状態、神にとって受け入れられる状態」として定義されています。

神様の前に立つ能力であり、罪が存在しなかったかのように神様を父と呼べる状態のことです。

では、私達クリスチャンはいつ義とされるのでしょうか?それは、信仰によってイエスを信じて受け入れた時です。

ローマ人への手紙 5:1

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。

他の聖書箇所ではこのように書かれています。

ローマ人への手紙 5:9

わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。

義を理解することで、私達は過去から自由に生きることができます。

コリント人への手紙Ⅱ5:17‭-‬19

だれでもクリスチャンになると、内側が全く新しくされます。もはや今までと同じ人間ではありません。新しい人生が始まったのです。 この新しい出来事はすべて神から出ています。神様は、キリスト・イエスの働きによって、私たちをご自分のもとに連れ戻してくださいました。そして、この恵みによる神との和解を、すべての人に勧める特権をも、私たちに与えてくださったのです。 つまり、キリストによって、この世をご自分と和解させ、その罪を数え立てずに、かえって帳消しにしてくださったのです。これが、人々に伝えるようにと私たちにゆだねられた、すばらしい知らせです。

キリストの行いにより神様は私達の罪を許してくれました。私達の罪を帳消しにしてくれました。しかし、私達の敵である悪魔は罪がまだ許されてないのではないかという思いを与え、罪悪感を与えます。それに対抗するためにはイエスの行いによる死とその意味を理解する必要があります。

へブル人への手紙 10:12‭, ‬14、17‭-‬18

しかしキリストは、いつまでも有効な、ただ一つのいけにえとして、私たちの罪のためにご自分を神にささげ、そのあと神の右の座について、 キリストは、この一度かぎりの行為によって、ご自分がきよめる人々をみな、永遠に完全なものとしてくださったのです。さらに聖霊は、こうも言われます。「わたしは、二度と彼らの罪と不法を思い出さない。」( エレミヤ31・34 )このように罪が永久に赦され、また忘れ去られてしまうなら、罪を取り除くためのいけにえを、これ以上ささげる必要はありません。イエスは一度限りの犠牲を払いました。永遠に完全なものです。

イエスの死は完璧でした。ミッションコンプリートです。私達が悔い改める時、神様は罪を許し、思い出さない方です。そして神様は恵み深いお方です。 

ローマ人への手紙 6:14‭-‬15‭

‬なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。 

あるクリスチャン達は恵みの下にいるので罪を犯していいのではないかと思っています。しかし、それは聖書的ではありません。クリスチャン生活を遊ぶことは危険です。

多くのクリスチャンは神様にとって自分がどのような存在かを知らないため、感情によって生きています。ある日は調子が良かったり、ある日はとてもテンションダウンで、アップダウンやジェットコースターの人生を生きています。しかし、それは神様の望みではありません。私達は今、旧約より優れている契約にいます。その人生を生きるか生きないかはあなた次第です。

コリント人への第二の手紙 5:21

神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

私達はイエスによって神様の義となりました。なので、大胆に神様に近づくことができます。