怠け者のクリスチャン

私たちは、クリスチャンとして、信仰に生きるために召されました。

ロマ 1:16-17 

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

「福音は神の力」と、読むと心が踊り、楽しくてたまりません。しかも、それは、日本人であってもなくても、あなたが福音を信じるなら、神様のみことばの力を体験することができます。もちろん、救いだけでなく、日常生活で、信仰によって神の力を燃え立たせることができます。聖書では「福音のうちには神様の義が啓示されている」と書かれています。それは、あなたが信仰を実行しながら霊的に成長して進んで行くからです。

信仰なしでは、私たちは神様を喜ばせることすらできません(へブ11:6)。信仰は私たちのライフスタイルなので、聖書では「義人は信仰によって生きる」と4回も堅く提示されています。(ハバ2:4;ロマ1:17;ガラ3:11;へブ10:38)

では、どうすれば信仰によって生きられるのかという疑問が出てくるかもしれません。その答えを、簡単に言うと、ロマ1:16が教えている通り、福音を信じれば良いのです。つまり、神様のみことばを信じれば信仰によって生きることになります。

しかし、残念ながら、多くのクリスチャンは信仰によって歩んでいるどころか、ほとんどが肉体的に歩んでいます。

要するに、この世の人のように普通に生きていて、自分は霊的な者だという認識さえもしていません。責めるような表現に聞こえるかもしれませんが、私はそのようなクリスチャンを「怠け者のクリスチャン」と呼びます。なぜそう呼ぶかというと、彼らは信仰を実行する努力したくないからです。

イエスキリストの弟子たちも同じように、たまに怠け者のような態度をとったのでイエスキリストに強く叱られました。

マルコ 4:40

イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

この話の背景をさらに詳しく理解するために、マコ4:35から5:1まで読むことを勧めますが、今回はある部分だけを深く分析したいと思います。

主イエスは、聖霊様に動かされ、弟子たちに「船で向こう岸に渡ろう」と指示を与えました。しかしながら、主イエスが群衆にたくさんのみことばを教えていたため、途中で疲れて船尾で寝てしまいました。

すると、急に天気が悪くなり、恐ろしい嵐や、大波が起きたため、弟子たちは死にそうだと思って絶望していました。彼らは主イエスを起こすと、主イエスは激しい大雨に強く命じて天気を落ち着かせました。その後、上に挙げたように、弟子たちを叱りました。

その場面から、私たちが理解できるのは、主イエスは、弟子たちがあの激しい状況下で、何かしらの態度をとることを期待していましたが、その期待が満たされなかったことです。

なので、主イエスは不満に思い、弟子たちに「信仰がないのは、どうしたことです」とはっきり話しました。

弟子たちはいつも主イエスの教えを受けて、模範であるイエスの姿勢や振る舞いを見ていたので、信仰が使えるはずなのに、信仰の行動をとらなかったのです。

むしろ、弟子たちは、厚かましく、主イエスがなんとかしてくださるはずだと考えて、主イエスに責められるほど、怠けていました。

あいにく多くのクリスチャンは、弟子たちと全く同じようにふるまってしまっています。大変なことが起こると、自分で信仰の行動をとらず、牧師や兄弟姉妹に、自分の状況を打ち明けて、自分がどれほどみじめで情けない状況にいるのかを説得しようとします。祈っても、不信仰な言葉しか出てこない状態なので「私は罪人であり、何もできない人間です!私はなんて可哀そうな人なんだ!主よ、憐れんでください!」というような祈りしてしまいます。

一見、謙虚で霊的な祈りに見えるのですが、神様はこのような祈りを喜びません。なぜなら、神様が喜ぶのは、信仰の態度だからです。

ヘブ 11:6

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

もし牧師が、今日このような祈りの要求をされ、イエスキリストのように答えたなら、牧師に従う人が少なくなるでしょう。皆に「なんて冷たい牧師なんだ!私が不信仰だとせめてきた!」などと考えられるかもしれません。

私は、誰かに祈ってもらうことが良くないとか、聖書的ではないと、言っているわけではありません。

信仰ある者として私たちは、自分が背負うはずの責任を誰かに任せるのは良くないのではないかと一緒に反省したいと思っているだけです。

簡単に言うなら、自分で信仰を使わず、誰かが私たちの代わりに信仰を使ってくれると期待するだけなのは、望ましいのかを考えてほしいです。

多くのクリスチャンは、神様の導きに期待していますが、神様が答えるまで返事を待ちきれなく、誰かが自分のために祈ってもらう方が手っ取り早い、あるいは、牧師や預言者が神様の代わりに、私に指示を与えてくれるほうが便利だと思ってしまっています。それら全ては、怠けた態度です。

マルコ4章の話に戻ると、イエスは弟子たちにとても簡単な信仰の行動を期待されていたことが分かります。

それはイエスの言葉を信じることです。主イエスは弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」と明確な指示を与えました。

イエスは弟子たちがその言葉を信じる態度をとるだろうと思っており、また、主イエスが「向こう岸へ渡れ」と指示されたので、絶対に渡ろうと考えてほしかったのです。

私たちは神様のみことばを信じることによって神の力を体験することができます。しかしながら、弟子たちは状況に脅かされて信仰の立場から落ちてしまいました。

ローマ1:16

福音は、… 信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

神様は、私たちがみことばを信じることを期待しています。それにより、私たちは神の力を体験することができ、全ての状況を乗り越えられます。

怠けてはいけません。しかし、それでも何か必要なら、弟子たちがしたように、主イエスに声をかけ、神様は助けてくださるという確信を抱いてください。

私達がすべき最善の行動は信仰に伴うことです。神様は私達が成熟したクリスチャンになることを期待しています。