幸せになりたい人は誰ですか? 誰もがそれを望んでいますよね?
しかし、神様の御言葉によると、幸せは世界が与える定義とは何の関係もありません。世の中にとって、幸せとはたくさんのお金、たくさんの所有物、影響力のある友人(インフルエンサー)、名声、地位、人気を持っている人達ですよね?
しかし、幸せであるとはどういう意味かというイエスの定義とはまったく異なります。マタイによる福音書5章3-10節には、幸せな人の中で際立っている8つの特質の説明と、それぞれの簡単な説明があります。
– 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。 (マタイによる福音書 5:3)
神の前で自分が完全なる援助を必要とし、自分自身に頼らないことを認める霊を持つことは幸いです。その人は神様に全ての信頼を置きます。
このような人だけが神様に従い、神様を喜ばせることができます。
– 悲しんでいる人たちは、さいわいである、 彼らは慰められるであろう。 (マタイによる福音書 5:4)
自分の罪と世の罪と苦しみに心を痛めている人は幸せです。あなたの涙は、私たちの魂の偉大な慰め者、私たちの弱さや苦しみの中で私たちを慰める神様に目を向けるように導きます。
– 柔和な人たちは、さいわいである、 彼らは地を受けつぐであろう。 (マタイによる福音書 5:5)
幸せ者は、自分自身のイメージや所有物を保護することに関心も執着もしていないが、神様の評判が危機に瀕しているときに憤慨している人です。彼はすでにすべての権利と物資を領主である正当な所有者に引き渡したので、彼は祝福されています。
したがって、彼が所有するものは何も保護する必要はありません。 神様は、この人にすべてのことを約束しておられます。
– 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう。 (マタイによる福音書 5:6)
神の道を歩み、御言葉の原則に従って生きたいと深く願望を持っている人は幸せです。まるで飢えと渇きで死に、食物と水を受け取る人であるかのように満足するからです。
– あわれみ深い人たちは、さいわいである、 彼らはあわれみを受けるであろう。 (マタイによる福音書 5:7)
幸せ者は、自分が相手であるかのように見て、考え、感じるまで、他の人の「肌」に身を置く人です。
この識別を通してのみ、彼は思いやりを学ぶことができます。このように行動する者は、イエス・キリストの中で神が彼にどのように慈悲深いかを理解しているので、哀れみを感動させるでしょう。
– 心の清い人たちは、さいわいである、 彼らは神を見るであろう。 (マタイによる福音書 5:8)
幸せものは、完全に純粋な目的、意図、動機、そして素朴な心を持っている人です。私たちの日常生活の中で神様に会い、ある日、顔を合わせます。
– 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、 彼らは神の子と呼ばれるであろう。 (マタイによる福音書 5:9)
ポジティブな関係を築き、他の人と平和に暮らせるよう努める人は幸せ者です。私たちは、神の子と呼ばれ、彼の行動と同じように似ています。
– 義のために迫害されてきた人たちは、 さいわいである、 天国は彼らのものである。 (マタイによる福音書 5:10)
迫害され、イエスのために、そして義のために苦しむに値すると考えられている人は幸せです。
彼は大きな報酬を受け取り、神様の国が彼のものであると約束されています。
ご覧のとおり、神様によれば、幸福はあなたが持っているものではなく、あなたが何であるかです!