私たちは忙しい社会の中で生きています。皆さんもそう感じているのではないでしょうか。用事が重なり合い、止まることがないように見えます。仕事や勉強、家族などのことで、私たちは毎日忙しくしています。また、どんなに頑張っても、仕事が終わらないように感じることもあります。
そのため、私たちはもっと成果を出せるように、より生産的になれる方法を取り入れようとすることが珍しくありません。私もその一人です。もっと生産的になり、時間をうまく使う方法を探しています。
しかしながら、現代の人々は「どうすれば生産的になれるか」をよく研究していますが、それでもなお、不満を感じてしまうようです。いくら働いても、いつも「まだ足りない」と思い、落胆してしまうのです。
しかし、それはなぜでしょうか。この記事だけで完全な答えを示すことはできませんが、いくつかの点を一緒に考えてみたいと思います。
まず、イエス・キリストは、私たちが不満や不安を抱えながら生きることを望んでおられません。むしろ、喜びに満ちた人生を送ることを望んでおられるのです。次の聖書箇所をご覧ください。
ヨハネ 15:11
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
では、どうすれば喜びに満たされた人生を生きることができるのでしょうか。
それは、イエス・キリストの語られたことを受け入れることによってです。イエス・キリストの教えるみことばは、私たちの人生に目的と意味を与えてくださいます。多くの人は方向も目的もなく生きようとしています。そのために、落胆してしまうのです。
ヨハネ15章で、イエス・キリストは弟子たちに大切な教えをされました。すべての人が実を結ぶ方法を教えておられるのです。
ヨハネ 15:4
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様に、あなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
要するに、私たちはイエス・キリストにとどまることによって、実を結ぶ人生を送ることができるということです。そして神様は、私たちが実を結ぶことを期待しておられます。
ある人は「神様は私という存在そのものにしか興味がない」と思っているかもしれません。確かに神様はあなたを愛しておられますが、それだけでなく、あなたが何をするかにも期待しておられます。なぜなら、神様はあなたを造られたときに、ある目的を持って造られたからです。
つまり、あなたはただ存在するために生まれたのではありません。使命(ミッション)を果たすために生まれたのです。私たちの人生には意味があります。
エペソ 1:4
すなわち、神は、世界の基が置かれる前からキリストにあって私たちを選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
この世界が造られる前から、神様はあなたのことを思い、あなたの人生を計画しておられたのです。
では、「イエスにとどまる」とはどういうことでしょうか。
ヨハネ 15:9–10
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛の中にとどまるのです。それは、わたしが父の戒めを守り、父の愛の中にとどまっているのと同じです。
私たちは、イエス・キリストの戒めを守ることによって、イエス・キリストにとどまるのです。その戒めとは「愛すること」です。では、どのように愛すればよいのでしょうか。
それは、イエス・キリストが愛されたように愛することです。ここに非常に重要な鍵があります。そのために、イエス・キリストがこの章の初めから語られていることを簡単に振り返ってみましょう。
① イエス・キリストは、私たちが実を結ぶ必要があると言われました。
② 枝がぶどうの木につながっているように、私たちもイエス・キリストにとどまる必要があります。
③ イエスにとどまることは、イエス・キリストの戒めを守ることです。
④ イエス・キリストの戒めとは、イエス・キリストが愛されたように愛することです。
ここで「愛」について少し考えてみましょう。興味深いことに、結ばれた実を味わうのは、その木自身ではなく、他の人です。誰かがその木の実を見て「おいしそう」と思い、食べるのです。つまり、実を結ぶことは自分のためではなく、他の人のためなのです。
そしてそれは、愛と深く結びついています。なぜなら、「愛する」ということは、他の人を愛する時にこそ表されるからです。
イエス・キリストはどのように愛されたでしょうか。それは、私たちのためにご自身の命を捧げられたことによってです。
つまり、イエス・キリストは自分自身を守ろうとせず、他の人のために生きられたのです。
同じように、本当の愛は、自分のためではなく他の人のために生きるときに表されます。
では、なぜ多くの人が落胆しているのでしょうか。
彼らは「もっと生産的になる方法」を必死に追い求めていますが、その目的がすべて自分のためだからです。結果として、人生の意味が見えず、混乱してしまうのです。
なぜなら、神様が計画された私たちの人生の意味は、自分のためではなく、他の人を祝福するためだからです。
私たちは、他の人の役に立つために生まれました。アブラハムのように、「自分自身が祝福となる」ためにです。私たちを通して多くの人が祝福されるのです。
このことを理解すると、孤立した人生を送ろうとは思わなくなるでしょう。むしろ、自分の地域教会を大切にしようとするはずです。
イエス・キリストは、「戒め(つまり愛)にとどまる人生」を生きることによって、喜びに満ちた人生を送ると約束されました。
ですから、あなたが地域教会の皆さんと関わり、どこかの奉仕の場で仕えることを励ましたいです。そこに、あなたの人生の使命と運命がつながっていると信じます。