自分の生き方を考えたことありますか?
もし、あなたがいなくなったら、あなたの教えは受け継がれるものでしょうか?
それとも、すぐ忘れるものでしょうか?
人びとは私たちがいなくなったら「恋しい」といった思いを感じるのでしょうか?
それとも、その反対の感情を抱くのでしょうか?
もちろん、この世を去った時だけではなく、様々な場面について話しています。部活・学校・職場・教会など、様々な場面で人と接し、教える場面に対面します。
言葉を使った教えだけではなく、私たちの生き方は何を教えているのでしょうか?
12月に入って、レーマ聖書学校で「神様の性質」という科目で、中村光子先生の通訳をしていて、神様の性質について沢山学んでいます。
学んでいる中で、「神様は情け深い」と書いてあって、沢山の聖書箇所があり、そのうちに詩篇86篇15節も記載されていました。
レガシーとどんな関係があるのかと言いますと、
皆さん、聖書に書かれているヨナをご存知でしょうか?すごく簡潔に述べます。。(しかし、是非ヨナ書を読むことをお勧めします。)
ヨナは主の召しがあり、御言葉を受けたのです。
ヨナ書1章2節(新改訳)
「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
しかし、ヨナは主の御顔を避けて、ニネベの正反対の町のタルシシュに向かおうとしました。ところが、主の臨在から逃れることはできません!(詩篇139章にも書かれている通りに)
それで、不順な心のせいで沢山の悪影響を及ぼした。しかし、主は魚を備えてヨナを飲み込ませ、ヨナは悔い改め、主は魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させた。再び、ヨナに主の言葉があって、ニネベに行って、悔い改めるようにと言いました。ヨナはその通りにして、人々や国王まで全員悔い改めました!
ヨナ書3章10節(新改訳)
神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らを下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。
ここに書かれている「思い直し」は「後悔」の意味ではなく「憐れんだ」ということです!
ヨナ書4章1~3節(新改訳)
ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、主に祈って言った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めてタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」
旧約聖書なのに、神様の性質も表せているのです。
心から悔い改めると、主はあわれみ深く情け深い方なので許すのです。そうでなければ、不義となってしまうので、神様の性質に反するものになるからです。とってもドラマチックな預言者でした!!ヨナの望みは、みんな悪いことしたんだから、裁きをくださればいいと思っていました。でも、これは私たちが使える神様ではないのです。
ヨナは人々が罪を犯し、それに対して主の御言葉を伝え、人々は悔い改め、主はそれを許していたから、納得せずにいた!それだったら、早く死んだほうがましだと思っていたのです。怒るようなことではなく、むしろ喜ぶべきことでした。4節に主はヨナに聞くんです!なんで当然のことのように怒るのか?と問うんです!
その後、主は一本のとうごまを備えてヨナのために日陰を作り、ヨナはとっても喜んでいた。その翌日の夜に一匹の虫が来て、そのとうごまを食べて、とうごまは枯れてしまって、ヨナはそのとうごまをとっても気に入ってたので、枯れたことに対してとっても悲しんでいた。それに日陰もないし、生きるよりも死んだほうがましだと主に言ったのです!
主はこう仰せられた。。
ヨナ書4章9節~11節(新改訳)
すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえもしない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」
よく見ると、ヨナは滅びる町のことを悲しむこともせずに、許した神様に怒ったのに、枯れていた木に対してはとっても悲しんでいた。。。順序が全く逆ですよね。。。
これと同様に、私たちは同じ生き方をしているのではないでしょうか??物に対して憐れんでいるのに、隣にいる兄弟を忘れているのではないでしょうか?
自分だけをみて、まわりを忘れているのではないか?自分さえよければいいという自分勝手な生き方をしているのではないでしょうか?
もちろんヨナのように裁かれればいいという感情だけではなく、もしかしたらこう思ったことはないでしょうか?
「自分なんて才能はない」「どうせ私は。。。」「孤独だ。。」「私なんてちっぽけで、なんもできない」などと思ったり、言ったことありませんか?
神様は私たち一人一人を召し、使命・賜物・油注ぎなどを与えてくださいました。
なので、自分の力ではないのです!自分の力だけに限られちゃうと大勢の日々とをために私たちを主はつかいたいのに主の御顔から逃げていることになるのです。
主を信頼せずに、「自分」でしか生きていないのです。
私たちは人々が待っている正確な答えです。暗闇の光です。国は私たちの中に主の現れが必要です!主はあなたにしかできないものを与えました!!
それを生きる決断をしましょう!!私たちの生き様が人々に光を照らしだし、暗闇から救うのです!救いのパイプになるのです!!主はどれほど人々を愛し、どれほど良いお方なのかみんなの耳にタコができるほど言い続けましょう!!命の限り伝えましょう!!
ペテロはその内の一人でした!最後まで主のために生きた!
ペテロの手紙第二 1章12ー15節(ALIVEバイブル)
もちろん、みなさんは真理を強く握りしめているので、これらのことは既に知っているだろうが、あなたがたの耳にタコが出来るまで言わせてもらう。いいや、私の命の限り言おう!私の体はもう長くないもたない。われらの王なるイエス・キリストからの啓示だ。だからこそ、命の限りその心に刻み込む。私が去ったあとも、しっかり受け継がれるように。
ペテロはもう、自分の終盤の時が来るのを知っていました。
彼がこの聖書箇所で言っているのは、生きている内にもちろんインパクトを与える特権はもらえたけど、いなくなった後にもインパクト・結果・記念・レガシーを与え、それが受け継がれるように努力することをペテロが言っているのです!
自分がいなくなった後でも、教えた言葉、イエスの啓示が私たちの人生に実が成るように語り続けると言っているのです。
この生き方は人間がいつまでもあなたを覚えていられるようにではなく、主の思いにいつまでも残れるように生きるのです。
私たちがこの世にいなくても、主を第一とした生き方や私たちの生きた証を主が生きている人にインパクトを与えられるようにしたいのです。
その生き様はその人を褒めたたえるためではなく、栄光を与えるためでもなく、他の人にインスピレーションを与えるためです。
いなくなった時にそのインパクトが終わるものではなく、続くためです。
これは私たちの選択肢です!そのように生きるか生きないか!
このような生き方は自分を祝福するだけではなく、私たちがいなくなった時さえも受け継がれるものとなります。アベルのように、ナルド油の女性のように。
聖書はその他にも沢山の方々のことを教えてくれています。
何年たっても、あなたの生き様が人々を動かし、主と共に生きる決断をし、インスピレーションやインパクトを与えられるように生きましょう!
イエス様からの啓示を命の限り人々の心に刻み込み、私たちがいなくなっても、しっかり受け継がれるように、主を敬える生き方、主を表せる生き方を選びましょう!!
多くの場合はその決断を人々は理解しません。。でも、大丈夫です!
レースの終わりに主が「あなたを知っている!入りなさい」と言われるほうが良いのです!!比べようがないのです!!
ガラテヤ人への手紙1章10節(新改訳)
いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。
もちろん、喧嘩売ってくださいと言っていません!神様の御心と人間と調和して、生きられるのであれば最高です!!
ただ、どんな生き方を選ぶかとなると主の喜ばれる生き方をしましょうということです!